みきけいこのフォトーク!

写真と、日々のあれやこれやのよしなしごと

来てみんさい、広島へ 1 <海景>

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高知に行って、初めて太平洋を見た時に驚いた。
 
海に、何も、ない。すんごい広い。
遠くに水平線が見える、何の邪魔もなしに。
 
これを当たり前にして、育ってきた人たちがいるのだなぁとなんだか不思議な気持ちになった。
 
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「死によって、奪われる思い出」

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自分自身の事ですら、知ることができない。
 
例えば幼い頃の話、己のルーツとなるような先祖の話。
思春期にひどく揉めた時の、母の感じていた事…もう全部全部聞けないのだ。
 
祖父母は全員、とっくに空のお星さま。
父はこういった事には全く頼りにならないタイプなのに。
ああ、どうしよう。
 
(前後略)
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「例えば、ジャイアンとのび太のように」

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単に面白みのない写真だな、と目が滑っていたものが。
文章という、その人の思考や意図のフィルター通すことによって。
パッと別のものに見えてくる瞬間が好きだ。
 
自分の目では見えなかったものが、見えてくる。
一瞬にして思考が拓ける、あの感覚。思考の共有。
(前後略)
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「好きなものに自覚的だね」

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自分にとっては。

"好き"と"興味がない"はわかりやすくて、それ以上も以下もないフラットな感情。
"嫌い"の方がずっと曖昧で流動的で、複雑で。

怒り、悲しみ、むなしさ、恨みや辛み…
何度でも引っ張り出しては、こねくり回して、飽きず向き合って。

そんな風に執着してしまう負を含む感情の方が、圧倒的に底の深い感情だと思う。

(前後略)
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note.mu

他人と写真を撮る意味

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先日、ひさびさに参加者の立場で。
東京から来られた写真家さんのワークショップへ行ってきました。

写真と文章をnoteでまとめてみたので、良かったら見てみてください。

note.mu





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「母の写真」

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1つ、後悔していることがある。
それが母が生きている間に、ちゃんと母の写真を撮らなかったこと。


母は写真に撮られるのが好きではなくて。

だからメイクしてお洒落して、みんなで集まるような時でもあれば…
そんな時なら綺麗に撮ってあげられるから、母も撮らせてくれるかな。

いつか機会があれば…と、そんな風に思っていた。


ただ、そんな機会を持つこともなく…
母は64歳という、亡くなるには少し早すぎる年齢で逝ってしまった。

まだまだ時間があると思っていたのに。


「腰が痛くて、仕事を辞めようと思っている」と聞いてから
2ヶ月も経たないうちに頬はこけ筋肉は削げ、見る影もないほどにやつれ…

3ヶ月経った頃には、もう亡くなっていた。
腰痛は全身に転移した癌のせいで、家族がそれを知ったのは
「余命1週間」との宣告を搬送先の病院で受けたときっだった。

もう写真を撮るどころではなかった。

 

そして、"自分の撮った、母の写真"というものは
もう永遠に実現できない夢になった。

 



よっぽどその事を後悔してたようで、1度夢を見たことがある。

亡くなる直前のモルヒネで意識が薄い状態の母が、ベッドに横たわっていて。
でもなぜか歳はかなり若返っていて、あまりやつれてもいない。

窓から差し込む光に照らされて、意味の伴わないうわ言を呟いている…
そんな母の姿が、あまりにも儚く美しく見えて。

夢の中で一眼ひっつかんで、何度もシャッターを切っていた。


現実ではなかったことを悲しむべきなのか。
それとも夢の中でとはいえ、思いを遂げることが出来たのを喜ぶべきなのか。

起きてから、少し迷った。

「自分を救うもの」

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以前に、プロフェッショナルという番組を見ていたら。

漫画家志望の子に編集さんが
「体験したことをそのまま描くなら日記と何が違うのか。
 過去の自分を救える話って、どういう話だと思う?」
って言ってるシーンがあってね。

 


うちの場合は、その話とは逆で。

子供時代の写真については「幸福な写真」に書いたように…
「未来の自分を救うものになったらいいな」という思いが、

何となくどこかにあるみたい。


それはきっと、自分の体験からきていて。

自分が幼い頃にカメラが趣味だった祖父が沢山撮って
何冊も作ってくれたアルバムが。
こうやって、今のうちの糧になってるんだろう…。


小学生の頃はあのアルバムを眺めながら、今はもういない祖父に、母に。
自分が覚えてない、小さな頃の話を聞かせてもらった。

そんな風に家族から話を聞く時間が好きだった。

あと単純に自分の知らない自分を見るのも面白かったし、
写真をきっかけに、ふっとそれに纏わる記憶が蘇ったりもしてね。


この仕事で家族を撮るようになってから、
そういうこと思い出すようになった。

思春期過ぎてからは、綺麗じゃない自分の写真なんて
撮るのも見るのも好きではなかったけど。

あの頃は、好きだったなぁ。